2009年5月23日土曜日

NHK『人を殺しても、愛があれば大丈夫!』

昔から、WW2の時期の日本があそこであーしてあーなってればこーだったのに、的な歴史オナニーは幅広い世代の間で繰り返されてきた訳で。近代の日本の軍組織や軍人に対する評価で、単純に人殺しイケナイという人々は論外として、将官として明らかに無能だった者について、何らかの『泣ける話』のお陰で、無駄に偉大なことにされてたりするのはウンザリする。
昔から、後の人々の価値観でイメージが固定されてしまうことはよくある。例えば聖徳太子という人がいて超頭よかったとか、義経はおにいちゃんにいじめられてかわいそうだったとか、赤穂藩は悲劇のヒーローとか。最近では、映画でもゲームでも、非常に安易に織田信長を悪の帝王にされていることが非常に多い。まあ、新興宗教は怖いってことですね。昔も…現在も。

[「天地人」はこんなにヘンだ! - 雑誌記事:@niftyニュース]

いくら愛に生きたとか言ったって、戦国武将であれば、当たり前のことなんだが、まあ、神奈川~東京近辺の人間からすれば、直江、いや上杉は『敵』な訳です。まあ、地元意識の薄い土地柄なので、会津vs長州みたいなことは(あんまり)ないわけですが。

[直江兼続 - Wikipedia]
天正16年8月17日(1588年10月7日)には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜る。天正17年(1589年)の佐渡征伐に景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられた。天正18年(1590年)の小田原征伐でも景勝に従い、松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基・難波田憲次・若林氏らを降ろし、先兵として八王子城を攻略させるなどし関東諸城を攻略。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においても景勝と共に参陣して武功を挙げた。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った。


慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになる。石田三成と懇意であった兼続は、家康との対立を決意する。徳川家との融和を主張した上杉家重臣・藤田信吉を追放し、家康の度重なる上洛要求も拒んで、やがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。

このときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させるきっかけとなった直江状の文面は後世の偽作、改ざんの可能性が指摘されているものの、家康の上杉征伐を諌止した豊臣奉行衆の書状には「今度、直江所行、相届かざる儀、ご立腹ご尤もに存じ候」「田舎者に御座候間、不調法故」などとあることから、兼続の書状が存在し、それに家康が激怒したことは事実のようである。


史実的には、極めてニュートラルルート的な、ありがちといえばありがちな救いきれない戦国武将な訳ですが、さしあたっては、関東,朝鮮出兵での大活躍に期待ですね。景勝への愛のために敵を殺して殺して殺しまくる姿が爽やかに描かれることでしょう。きゃっ!
…まさかの韓国ロケっすか?

0 件のコメント: